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島の概要

 伊是名島は沖縄本島の北方、北緯26度56分30秒、東経127度56分35秒に位置し、総面積は15.42K㎡で伊是名島のほか、具志川島、屋那覇島、降神島の4島から成り立っています。伊是名島を除くたの3島は起伏の少ない隆起珊瑚礁の島ですが、伊是名島はほぼ中央を120mから129mの高台山地が山脈状をなし、南北に走り、これを分水嶺として海岸になだらかに勾配をもち、耕地が広がっています。集落は海岸沿いに発展し、南に伊是名区、西に勢理客区、東に諸見区、仲田区、北に内花区の5区の集落からなっています。
 土地は全体として国頭マージで耕作には便利ですが地力はあまり高くありません。主な農作物はサトウキビのほか、沖縄県内では数少ない稲作も行われています。
水産業ではモズクの養殖が盛んに行われ、伊是名島の特産品として定着し、県内外へ出荷されています。

伊是名島の地図
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島の歴史

 琉球国王第二尚氏(1470~1879)の始祖尚円王は本村出身で、沖縄本島の三山を統一した第一尚氏の祖父鱗川大主(伊平屋出身)は伊是城主であったといわれています。
 尚円王以降、伊是名島は格別の扱いを受け、大美御殿の直領として伊是名島を総地頭に下地役検者を配して司政にあたらしめました。この頃から伊是名と伊平屋は一つの行政区として取り扱われて伊平屋と総称され、伊是名を前地(メージ)、伊平屋を後地(クシジ)と呼び、番所は伊是名に置かれました。明治12年(1879年)の廃藩置県をうけて、翌13年(1880年)に発布された間切島史員規程によって番所は間切島役場と改称され、地頭代が廃止されて島長が任命されました。明治42年(1909年)には島嶼町村制が施行され、間切島は村、村は字となり、島長は村長、村頭は区長、島会議員は村会議員に改称されました。昭和14年(1939年)7月1日の分村許可司令により伊平屋村から分村し、伊是名村としての単独村政を施行。第2次世界大戦後は昭和21年の本土からの行政分離により、従来の島尻郡区から北部地区へ編入されました。昭和47年5月15日には、長かった米国統治から施政権が返還され、本土復帰の夢が実現し現在に至っています。

​尚円王誕生の地

 伊是名の百姓から国王になり、四百年続く長期王統をひらく.。
第二尚王統の初代・尚円(しょう えん)王は元々の名を金丸(かなまる)といい、両親は伊是名島の百姓でした。若い頃は島でも評判の働き者でしたが、ある干ばつの年に金丸の田んぼだけが干上がらなかった事から水泥棒の疑いをかけられ、島から追い出されてしまいます。あるいは、非常に好男子だった金丸が女性の人気を独り占めしてしまい、島の青年達から憎まれた為とも言われています。
 金丸は島を出て転々とするうち、越来(ごえく)王子 尚泰久(しょう たいきゅう)の目に留まり役人として取り立てられました。有能だった金丸はやがて尚泰久の絶大な信頼を得るようになります。
 当時の第一尚氏王朝は国王が相次いで亡くなっており、一四五三年に越来王子だった尚泰久が首里に呼び戻されて即位しました。これにより、金丸は国王の右腕として絶大な権力をふるい「御物城御鎖之側(王府の外交と那覇の監督官)」という重要な役職をも任されるほどになります。 尚泰久王が亡くなると、跡を継いだ尚徳王にも仕えましたが、尚徳が金丸ら要人の忠告を聞かない暴君だったため、職を辞して内間の領地に隠棲しました。
ほどなく尚徳王が病で亡くなると、家臣達はその非道な政治を反省し、次の王に金丸を推挙し首里城に迎えました。一四六九年、時に金丸は五十五歳。ついに琉球国王となった金丸は尚円王と名乗り、以後四百年以上続く第二尚王朝をひらいたのです。

銘苅家住宅
金丸(尚円王)
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